JA/Prabhupada 0907 - 精神世界において、不道徳というものも良い: Difference between revisions
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Latest revision as of 07:33, 28 June 2021
730419 - Lecture SB 01.08.27 - Los Angeles
“ 物質的な貧しさにおける所有する者は 行動と物質自然の様式の反動で何もすることができない それは自己満足の、最も温和な一元論者の主人ということだ”
だから ナマハ アキンチャナ-ヴィッターヤ 物質的な貧しさ これは献身者の第一の資格である 物質世界の物は何も持たない者 単にクリシュナに心を保つ。それがアキンチャナ-ヴィッタ アキンチャナは物質的財産を全て失くした者という意味だ もし君が "物質的に幸せになりたい”という僅かな考えを持ったら、 またもや君は肉体を受け入れないればならないから
自然界は君がどんな方法でもこの物質世界を謳歌したいと思えば、 主の指導の下、相応しい身体を与えてくれる 神は皆の心に存在します だから彼は、君が物質的な何かを望んでいることも全てご存じだ 彼は “さあ、どうぞ”と与えてくれる クリシュナは、君が物質的に得ても幸せになれないという経験をさせたいのだ これはクリシュナの仕事だ。完全に自由だ 君が僅かな自由を得ても、 我々はクリシュナのほんの一部である クリシュナは完全に自由だが、私がクリシュナの一部だから自由の質は自分による 化学合成だ。海水の一滴から塩ができるように 海水にどれだけ塩が含まれているか比較できないけれど だが塩はそこに存在する これが我々の理解だ。ジャンマーディ アシャ ヤタハ (SB1篇1章1節) 我々がほんの僅かしか持たずとも、クリシュナがそこにいるのと同じことだ 十分に。まさにクリシュナが “ムリチュフ サルヴァ-ハラシュ チャ アハンと言ったように
いま我々は他人の物を取るという傾向がある それは盗みといえる。そんな傾向がある なぜか?クリシュナがそうだ。クリシュナはバター泥棒として有名だ 始めに、こっそりと盗んでいる 物を盗らずして、どうして得ることができる? だがクリシュナの盗みと私のは違う なぜなら私は物質的に汚染されているから。私の盗みは言語道断だ 同じ盗みでも精神的絶対的な状況では、素敵で楽しめる 母ヤショダはクリシュナの泥棒行為を楽しんでいる 物質界と精神界では違う 精神的などんな活動は全てよく、物質的な活動は全て悪い これは違いだ。道徳、善行と呼ばれるものも、全て良くない 精神界では、不道徳と呼ばれることでも、良いのだ それは理解しなければなりません
まるで他人の妻と死ぬ前夜にダンスをする、これは不道徳だ みんな理解する。少なくともヴェーダ界では許されない 若い女性が死の前夜に若い男の元へ行き、ダンスをする これはインドでは決して許されない。禁止されている だが我々は、ゴピーがフルートの音を聞けばすぐに現れるのを知っている 物質的概念からは不道徳だ、 だが精神的な概念では、素晴らしく道徳的なのだ チャイタンニャがラミャ カーチッドパーサナ ヴラジャ-ヴァドゥ‐ヴァルゲナ ヤ カルピタと言ったように "ヴラジャ-ヴァドゥ、ヴリンダヴァンの少女を思うことはどんな崇拝にも勝る” チャイタンニャ マハープラブは女性関係に厳格であった 彼の家庭生活でも、彼は女性に対して冗談など言わなかった 彼は良く冗談を言うが、男性にだけだ 決して女性には冗談を言わない。決して 恐らく彼は一度だけ、妻のヴィシュヌ-プリヤに冗談を言った サチマタが何かを探していた時に、ほんの冗談を言った “多分、息子の嫁が取ったんだろうね”と 一生の中でただそれだけだ。それ以外は非常に厳格だった 彼がサニヤーシの時はどんな女性も彼の近くで尊敬の礼を表すことができなかった 離れたところから礼を送った だが彼はラミャ カーチッドパーサナ ヴラジャ-ヴァドゥ‐ヴァルゲナ ヤ カルピタ 彼はヴラジャ-ヴァドゥを思うことはどんな崇拝にも勝ると言った 何がヴラジャ‐ヴァドゥの概念か? どんなに危険でもクリシュナを愛したいということ だからこれは不道徳ではない。我々は理解しなければなりません