JA/BG 4.33

Revision as of 07:49, 1 August 2020 by Navakishora Mukunda (talk | contribs) (Bhagavad-gita Compile Form edit)
(diff) ← Older revision | Latest revision (diff) | Newer revision → (diff)
His Divine Grace A.C. Bhaktivedanta Swami Prabhupāda


第 33 節

śreyān dravya-mayād yajñāj
jñāna-yajñaḥ paran-tapa
sarvaṁ karmākhilaṁ pārtha
jñāne parisamāpyate

Synonyms

śreyān — ~より偉大な; dravya-mayāt—物質的所有物の;yajñāt—供儀よりも; jñāna-yajñaḥ—知識の供犠; parantapa — おお、敵をうちこらす者よ; sarvam—全ての; karma—活動; akhilam — 全体で; pārtha — おお、プリターの息子よ; jñāne — 知識において; parisamāpyate—終わる

Translation

敵を討ちこらす者よ、物質の供犠より知識の供犠がはるかに勝っているプリターの息子よ、すべての活動は頂上に達してついに超越知識に通じる

Purport

あらゆる供儀の目的は、知識の完成に到達することです。そして物質的な苦悩から解放され、至上主と愛の交流関係に入ること、クリシュナ意識に浸ることです。ですが、こうした各種のヤグニャ活動にはそれぞれ奥義があります。どうしてもそれを知る必要があります。ヤグニャは、行う人の信仰状態によって異なった形式をとる場合があります。ある人の信仰が、超越知識、つまり真理を知るという段階に届いていたならば、その供犠を行う人は、無知のままただお金や物品等を供えるだけの人よりずっと進歩しています。なぜなら、知識の向上を考えないヤグニャはいつまでも物質平面に留まっているだけで、魂の糧とはならないからです。真実の知識は必然的にクリシュナ意識、超越意識の中で最高点に達します。知識の向上を度外視した供儀は単なる物質的行動にすぎません。ですが、彼らの知識が進歩して超越的な段階までとどくようになったら、その行動は立派なものとなるのです。行う人の意識の差異によって、供儀は“果報を求める部門”とも“真智を求める部門”とも呼ばれています。一時的な現世利益を得るより、知識の向上の方がよいことは明らかです。