JA/BG 18.55

Revision as of 05:22, 2 August 2020 by Navakishora Mukunda (talk | contribs) (Bhagavad-gita Compile Form edit)
(diff) ← Older revision | Latest revision (diff) | Newer revision → (diff)
His Divine Grace A.C. Bhaktivedanta Swami Prabhupāda


第 55 節

bhaktyā mām abhijānāti
yāvān yaś cāsmi tattvataḥ
tato māṁ tattvato jñātvā
viśate tad-anantaram

Synonyms

bhaktyā—純粋な献身奉仕によって; mām—私を; abhijānāti—人は知ることができる; yāvān — ~と同じほどに; yaḥ ca asmi — そのままの私; tattvataḥ — 真に; tataḥ—それから; mām — 私を;tattvataḥ — 真に; jñātvā—知って; viśate — 入る;tat-anantaram — その後

Translation

ただ献身奉仕によってのみ、私をバガヴァーンとしてあるがまま理解することができる。そのような献身的態度によって私を充分意識する者は神の王国に入ることができる

Purport

 バガヴァーン、クリシュナや、その完全拡張体を心的思索によって非献身者が理解することは不可能である。もしバガヴァーンを理解しようと望むなら、純粋な献身者の指導の下で献身奉仕を行うべきである。さもなければバガヴァーンの真理を理解することは不可能である。主は自らを全ての人にお現しになるわけではないと『バガヴァッド・ギーター』(7-25)でいわれている。クリシュナ意識と献身奉仕を行う人だけがクリシュナを理解することができる。大学の学位はクリシュナを理解する助けにならない。

 クリシュナの科学に精通してしる人は、クリシュナのお住みになる精神王国に到達することができる。ブラフマンになることは個別魂を失うことではなく、その段階には献身奉仕が存在する。そして献身奉仕が存在する限り、神、献身者、献身奉仕のプロセスが存在しなければならない。解放の後にもそのような知識は消滅しない。解放とは生命の物質的概念から自由になることである。精神生活では全てが純粋なクリシュナ意識で存在する。ヴィシャテーすなわち「私に入る」という語が非人格ブラフマンと同化するという一元論を支持すると誤って考えてはならない。ヴィシャテーとは個別性をもって至上主の国に入り、主と交際し、主に奉仕することを意味する。例えば緑色の鳥が緑色の樹に入るのは樹とひとつになるためではなく、樹の実を味わうためである。マーヤーヴァーディーはよく河が海に入り海と同化する例をよく挙げる。そのように同化することはマーヤーヴァーディーに幸福感を与えるかも知れないが、ヴァイシュナヴァは海に住む水生動物のように個別性を保つ。深海には多くの水生動物を見かけることができる。海面を観察するだけでは充分ではない。深海に住む水生動物のことも知らなければならない。

 純粋な献身奉仕を行うことにより献身者は至上主の超越的性質と富の真実を知ることができる。第11章に述べられているように、献身奉仕によってのみ理解することができる。献身奉仕によりバガヴァーンを理解できるようになり、主の王国に入ることができると同じ主題がここで確認されている。

 物質概念から解放されたブラフマブータ段階に到達した後、人は主について聞くことができ、感覚的快楽に対する渇望と欲望が消滅するにつれ、主の奉仕にさらに愛着するようになり、そのような愛着により献身者は物質的汚染から解放される。その段階に到達すると至上主を理解できるようになる。これは『シュリーマド・バーガヴァタム』にも述べられている。解放の後はバクティすなわち超越的奉仕が継続する。『ヴェーダーンタ・スートラ』(4-1-12)にも解放の後献身奉仕のプロセスが継続されると記述されている。『シュリーマド・バーガヴァタム』では生命体が本来の立場に戻ることを献身的解放と定義している。生命体の本来の立場は既に述べたように至上主の極微部分であり、奉仕することである。