JA/Prabhupada 1063 - 全活動の作用と反作用から我々を解放する: Difference between revisions
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現在の生においてそうであるように、我々は活動を楽しみ、我々の活動の結果を楽しんでいます。私がビジネスマンで知性をもって非常に働き、銀行にたくさんの預金残高を蓄積しているとします。すると私は楽しむ者です。同様に、たくさんの資金を持ってビジネスを始め、しかし成功できなかった。お金を全て失った。すると私は苦しむ者です。同様に、我々の生のあらゆる分野で我々は楽しむ、我々の働きの結果を楽しみます。これがkarmaと呼ばれます。これらのこと、īśvara、jīva、prakṛti、すなわち至上主、生命体、物質的自然、 永遠の時間、そして我々のさまざまな活動、これらのことがバガヴァッド・ギーターにおいて説明されています。これら5つのうち、主、生命体たち、物質的自然、時間、これら4つの項目は永遠です。出現、prakṛtiの出現は一時的ではあるかもしれないが、しかし偽ではない。物質的自然のこの出現は偽であるという哲学者もおりますが、バガヴァッド・ギーターの哲学、ヴァイシュナヴァの哲学、によれば、世界の出現を偽とは取らない。世界の出現を現実である、が一時的なもの、と承知する。それは空に雲が現れて雨季が始まり、雨季の後にたくさんの新しい青々とした植物が一面に生えるのを見る。雨季が終わるや、雲が消える。普通、徐々に、この植物はみな枯れて再び土地は不毛の土地になる。同様に、この物質的出現は一定の間隔で起こります。我々はそれを理解する、それを知るでしょう、バガヴァッド・ギーターの頁から Bhūtvā bhūtvā pralīyate ([[vanisource:BG 8.19 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章19節]]) この出現は一定の間隔で精密に素晴らしいものになり、そして再び消滅する。それがprakṛtiの働きです。しかしそれは永遠に働いている、故にprakṛtiは永遠です。それは偽ではない、なぜなら主が認めておられる mama prakṛti "我がprakṛti" ([[vanisource:BG 7.5 (1972)|バガヴァッド・ギーター7章5節]]) Bhinnā prakṛti, bhinnā prakṛti, aparā prakṛti この物質的自然は至上主の分離したエネルギーであり、そして生命体たち、生命体たちもまた至上主のエネルギーですが、分離してはいない。永遠に関連している。ですから主、生命体、自然、物質的自然、そして時間、それらはみな永遠です。しかし他の項目、karma、は永遠ではない。karma、活動、の諸影響はとても古いでしょう。我々は太古の昔から我々の諸活動の結果に苦しんだり楽しんだりしており、しかしなお、我々は我々のkarma、活動、の結果を変えることができます。それは我々の完璧な知識に頼られます。疑いなく我々はさまざまな活動に従事している。しかし我々はどのような活動を採用すべきか、を知らない。それが全活動の作用と反作用から我々を解放してくれる、どのような活動を採るべきか。それもまたバガヴァッド・ギーターに説明されています。īśvaraの立場は、至上の意識です。īśvaraすなわち至上主の立場、は至上の意識である。そしてjīvaたち、生命体たち、至上主の本質的部分であり、生命体も意識があります。一つの生命体もまた意識がある。生命体はprakṛtiとして説明される、エネルギーとして。そして物質的自然もまたprakṛtiとして説明される。しかしこの2つにおいて、一方のprakṛti、jīvaたち、には意識があります。もう一方のprakṛtiは意識はない。それが違いです。故にjīva prakṛtiは優れた・上位のものと呼ばれる、jīvaは主と似た意識を持つからです。主は至上の意識である。一つのjīva、一つの生命体もまた至上の意識であると主張すべきではありません。そうではない。生命体はその完成のいかなる段階においても至上の意識あるものになることはできない。それは誤解させる理論です。それは誤解させる理論。しかし生命体には意識がある。それだけです。しかし至上の意識あるものではない。 | |||
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Latest revision as of 14:45, 15 October 2017
660219-20 - Lecture BG Introduction - New York
現在の生においてそうであるように、我々は活動を楽しみ、我々の活動の結果を楽しんでいます。私がビジネスマンで知性をもって非常に働き、銀行にたくさんの預金残高を蓄積しているとします。すると私は楽しむ者です。同様に、たくさんの資金を持ってビジネスを始め、しかし成功できなかった。お金を全て失った。すると私は苦しむ者です。同様に、我々の生のあらゆる分野で我々は楽しむ、我々の働きの結果を楽しみます。これがkarmaと呼ばれます。これらのこと、īśvara、jīva、prakṛti、すなわち至上主、生命体、物質的自然、 永遠の時間、そして我々のさまざまな活動、これらのことがバガヴァッド・ギーターにおいて説明されています。これら5つのうち、主、生命体たち、物質的自然、時間、これら4つの項目は永遠です。出現、prakṛtiの出現は一時的ではあるかもしれないが、しかし偽ではない。物質的自然のこの出現は偽であるという哲学者もおりますが、バガヴァッド・ギーターの哲学、ヴァイシュナヴァの哲学、によれば、世界の出現を偽とは取らない。世界の出現を現実である、が一時的なもの、と承知する。それは空に雲が現れて雨季が始まり、雨季の後にたくさんの新しい青々とした植物が一面に生えるのを見る。雨季が終わるや、雲が消える。普通、徐々に、この植物はみな枯れて再び土地は不毛の土地になる。同様に、この物質的出現は一定の間隔で起こります。我々はそれを理解する、それを知るでしょう、バガヴァッド・ギーターの頁から Bhūtvā bhūtvā pralīyate (バガヴァッド・ギーター8章19節) この出現は一定の間隔で精密に素晴らしいものになり、そして再び消滅する。それがprakṛtiの働きです。しかしそれは永遠に働いている、故にprakṛtiは永遠です。それは偽ではない、なぜなら主が認めておられる mama prakṛti "我がprakṛti" (バガヴァッド・ギーター7章5節) Bhinnā prakṛti, bhinnā prakṛti, aparā prakṛti この物質的自然は至上主の分離したエネルギーであり、そして生命体たち、生命体たちもまた至上主のエネルギーですが、分離してはいない。永遠に関連している。ですから主、生命体、自然、物質的自然、そして時間、それらはみな永遠です。しかし他の項目、karma、は永遠ではない。karma、活動、の諸影響はとても古いでしょう。我々は太古の昔から我々の諸活動の結果に苦しんだり楽しんだりしており、しかしなお、我々は我々のkarma、活動、の結果を変えることができます。それは我々の完璧な知識に頼られます。疑いなく我々はさまざまな活動に従事している。しかし我々はどのような活動を採用すべきか、を知らない。それが全活動の作用と反作用から我々を解放してくれる、どのような活動を採るべきか。それもまたバガヴァッド・ギーターに説明されています。īśvaraの立場は、至上の意識です。īśvaraすなわち至上主の立場、は至上の意識である。そしてjīvaたち、生命体たち、至上主の本質的部分であり、生命体も意識があります。一つの生命体もまた意識がある。生命体はprakṛtiとして説明される、エネルギーとして。そして物質的自然もまたprakṛtiとして説明される。しかしこの2つにおいて、一方のprakṛti、jīvaたち、には意識があります。もう一方のprakṛtiは意識はない。それが違いです。故にjīva prakṛtiは優れた・上位のものと呼ばれる、jīvaは主と似た意識を持つからです。主は至上の意識である。一つのjīva、一つの生命体もまた至上の意識であると主張すべきではありません。そうではない。生命体はその完成のいかなる段階においても至上の意識あるものになることはできない。それは誤解させる理論です。それは誤解させる理論。しかし生命体には意識がある。それだけです。しかし至上の意識あるものではない。