JA/Prabhupada 1070 - 奉仕をすることは生物の永遠の宗教religionである: Difference between revisions
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sanātana- | sanātana-dharmaという先の概念に関して、サンスクリットdharmaという語の語根から宗教religionの概念を理解できるでしょう。それは「特定の対象と常にあるもの」を意味します。既に述べましたように、我々が火について話すとき同時に 火に伴う熱と光が推断されます。熱や光なくして「火」という語は意味をなしません。同様に、生物に常に伴うところの本質的・根本的部分を見い出さなくてはなりません。生物の不変の連れ立ちというその部分が生物の永遠の質であり、生物の質の永遠である部分が生物の永遠の宗教religionです。サナータナ・ゴスワミが主シュリー・チャイタンニャ・マハープラブにsvarūpaについて問うたとき、- 我々は既にあらゆる生物のsvarūpaについて論じました - svarūpaすなわち生物の本当の構成 (real constitution)について。主は答えました、生物の本質的(constitutional)な立場は至上主神格への奉仕に従事することである、と。主チャイタンニャの声明のこの部分を分析すると、あらゆる生物は常に仕事についているということがよくわかります。別の生物への奉仕という仕事に。一つの生物は別の生物に異なる資格・能力で奉仕します。そしてそうすることで生命体は生を楽しんでいる。下級の動物は人間に奉仕し、召使は主人に奉仕し AはB主人に奉仕しBはC主人に奉仕しCはD主人に奉仕し、と続きます。こういう状況ですから、友人は別の友人に奉仕し、母は息子に、妻は夫に、夫は妻に、奉仕しているとわかります。その精神で調べ続ければ、生物の社会において、例外なく無いということがわかるでしょう、奉仕という活動を見い出さない場所は。政治家は公衆に政治声明を発表し、有権者に自分の奉仕能力を納得させます。有権者は政治家に貴重な一票を投じます、政治家が社会に奉仕するだろうという期待に沿って。店主は顧客に奉仕し、職工は資本家に奉仕します。資本家は自分の家族に奉仕し、家族は永遠の存在の永遠の能力を使って首長に奉仕します。このように、免除される生物は無い、とわかります。別の生物への奉仕という実践から免除される生物は。故に結論できます、奉仕は生物の不変の連れ立ちである。故に結論して差し支えない、生物が奉仕に従事するということは、生物の永遠の宗教religionである。人が或る特定の型の信念に属すると公言するとき、誕生の特定の時や状況に関連してです、こうしてヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、他何かの宗徒、亜派、であるといいます。そのような名称は非sanātana-dharmaです。ヒンドゥー教徒は信念を変えてイスラム教徒になるかもしれませんし、イスラム教徒は信念を変えてヒンドゥー教徒やキリスト教徒になるかもしれません。しかし全ての状況において、そうした宗教的信念の変更は、別の生物へ奉仕するというその人の永遠の用務を変えることはなりません。ヒンドゥー教徒であろうとイスラム教徒であろうとキリスト教徒であろうと全ての状況下で、その人は誰かに奉仕するのであり、ですから或る特定の型の信念を信奉すると言うことは、sanātana-dharmaとは考えられません。生物の不変の連れ立ち、それは、奉仕に従事すること、がsanātana-dharmaです。実際、我々は至上主と奉仕の関係において結ばれています。至上主は至上なる享楽者、そして我々生命体たちは永遠に主の至上のしもべ。我々は主の享楽のために創造され、我々が至上主神格と永遠なる享楽を共に、それにあずかるならば、それが我々を幸福にする。他の方法はしません。別個に、既に説明しましたとおり、別個には、体のどの部分も、手、足、指、体のどの部分も、別個には、幸福にはなれません。胃との協力なくしては。同様に、生命体は決して幸福にはなれない、至上主へ超越的な愛のこもった奉仕をすることなくしては。バガヴァッド・ギーターにおいてさまざまな半神の崇拝は是認されていません。是認されていない、なぜなら、[[vanisource:BG 7.20 (1972)|バガヴァッド・ギーター7章20節]]に言われております、主は言われる kāmais tais tair hṛta-jñānāḥ prapadyante 'nya-devatāḥ。Kāmais tais tair hṛta-jñānāḥ 物質的な欲望に歪んだ者たち、ただ彼らは半神たちを崇拝する、至上主、クリシュナ、ではなく。 | ||
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Latest revision as of 14:47, 15 October 2017
660219-20 - Lecture BG Introduction - New York
sanātana-dharmaという先の概念に関して、サンスクリットdharmaという語の語根から宗教religionの概念を理解できるでしょう。それは「特定の対象と常にあるもの」を意味します。既に述べましたように、我々が火について話すとき同時に 火に伴う熱と光が推断されます。熱や光なくして「火」という語は意味をなしません。同様に、生物に常に伴うところの本質的・根本的部分を見い出さなくてはなりません。生物の不変の連れ立ちというその部分が生物の永遠の質であり、生物の質の永遠である部分が生物の永遠の宗教religionです。サナータナ・ゴスワミが主シュリー・チャイタンニャ・マハープラブにsvarūpaについて問うたとき、- 我々は既にあらゆる生物のsvarūpaについて論じました - svarūpaすなわち生物の本当の構成 (real constitution)について。主は答えました、生物の本質的(constitutional)な立場は至上主神格への奉仕に従事することである、と。主チャイタンニャの声明のこの部分を分析すると、あらゆる生物は常に仕事についているということがよくわかります。別の生物への奉仕という仕事に。一つの生物は別の生物に異なる資格・能力で奉仕します。そしてそうすることで生命体は生を楽しんでいる。下級の動物は人間に奉仕し、召使は主人に奉仕し AはB主人に奉仕しBはC主人に奉仕しCはD主人に奉仕し、と続きます。こういう状況ですから、友人は別の友人に奉仕し、母は息子に、妻は夫に、夫は妻に、奉仕しているとわかります。その精神で調べ続ければ、生物の社会において、例外なく無いということがわかるでしょう、奉仕という活動を見い出さない場所は。政治家は公衆に政治声明を発表し、有権者に自分の奉仕能力を納得させます。有権者は政治家に貴重な一票を投じます、政治家が社会に奉仕するだろうという期待に沿って。店主は顧客に奉仕し、職工は資本家に奉仕します。資本家は自分の家族に奉仕し、家族は永遠の存在の永遠の能力を使って首長に奉仕します。このように、免除される生物は無い、とわかります。別の生物への奉仕という実践から免除される生物は。故に結論できます、奉仕は生物の不変の連れ立ちである。故に結論して差し支えない、生物が奉仕に従事するということは、生物の永遠の宗教religionである。人が或る特定の型の信念に属すると公言するとき、誕生の特定の時や状況に関連してです、こうしてヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、他何かの宗徒、亜派、であるといいます。そのような名称は非sanātana-dharmaです。ヒンドゥー教徒は信念を変えてイスラム教徒になるかもしれませんし、イスラム教徒は信念を変えてヒンドゥー教徒やキリスト教徒になるかもしれません。しかし全ての状況において、そうした宗教的信念の変更は、別の生物へ奉仕するというその人の永遠の用務を変えることはなりません。ヒンドゥー教徒であろうとイスラム教徒であろうとキリスト教徒であろうと全ての状況下で、その人は誰かに奉仕するのであり、ですから或る特定の型の信念を信奉すると言うことは、sanātana-dharmaとは考えられません。生物の不変の連れ立ち、それは、奉仕に従事すること、がsanātana-dharmaです。実際、我々は至上主と奉仕の関係において結ばれています。至上主は至上なる享楽者、そして我々生命体たちは永遠に主の至上のしもべ。我々は主の享楽のために創造され、我々が至上主神格と永遠なる享楽を共に、それにあずかるならば、それが我々を幸福にする。他の方法はしません。別個に、既に説明しましたとおり、別個には、体のどの部分も、手、足、指、体のどの部分も、別個には、幸福にはなれません。胃との協力なくしては。同様に、生命体は決して幸福にはなれない、至上主へ超越的な愛のこもった奉仕をすることなくしては。バガヴァッド・ギーターにおいてさまざまな半神の崇拝は是認されていません。是認されていない、なぜなら、バガヴァッド・ギーター7章20節に言われております、主は言われる kāmais tais tair hṛta-jñānāḥ prapadyante 'nya-devatāḥ。Kāmais tais tair hṛta-jñānāḥ 物質的な欲望に歪んだ者たち、ただ彼らは半神たちを崇拝する、至上主、クリシュナ、ではなく。