JA/Prabhupada 1065 - 自分はこの物質的体ではないとまず第一に学ばなければならない: Difference between revisions
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そうして物質的に汚染されると、それは我々の条件付けられた段階と呼ばれます。条件付けられた段階。そして偽の自我、偽の意識‥偽の意識は"私はこの物質的自然の生成物の一つである"という印象に表れます。それは偽の自我と呼ばれます。物質的活動の全部、([[vanisource:SB 10.84.13 |シュリーマド・バーガヴァタム10巻84章13節]]) Yasyātma-buddhiḥ kuṇape tri-dhātuke 体の概念の思考に没頭する者 全バガヴァッド・ギーターは主により説明されました。なぜならアルジュナが体の概念の代理になったからです。生の体の概念から自由にならなければならない。それは超越主義者にとっての準備段階です。自由になりたい、解放されたい、と希む超越主義者にとって。まず第一に、自分はこの物質的体ではない、と学ばなければなりません。この意識、物質的意識‥この物質的意識から自由になると、それはmuktiと呼ばれます。Muktiすなわち解放、の意味は、物質的意識から自由になること。シュリーマド・バーガヴァタムにおいても解放の定義が述べられています ([[vanisource:SB 2.10.6 |シュリーマド・バーガヴァタム2巻10章6節]]) Svarūpeṇa vyavasthitiḥ Muktiとは、この物質界の汚染された意識からの解放、清浄な意識に位置する、という意味である。そして全ての教え、バガヴァッド・ギーターの教授の全ては、その清浄な意識を目覚めさせることを目的とする。我々はバガヴァッド・ギーターの教授の最終段階で見ることになります。クリシュナはアルジュナに問う、今や君は浄化されし意識にあるや、と。浄化された意識にあるかどうかと。浄化された意識は主の指示に一致して活動するものです。それが浄化された意識です。それが浄化された意識の要点の全てです。意識はすでにそこにある、我々は(主の)本質的部分であるからですしかし我々は影響を受ける。物質的諸モードに影響されるという親和性があるのです。しかし主は至上なるものであり、決して影響されない。主は影響されることはない。これが相違点です。主、至上なるもの、‥至上主と‥ ではこの意識とは‥ この意識とは何か? この意識とは"私はxである"です。私とは何か? 汚染された意識においては、この"私は"は"私は見渡す全てのものの主人である"を意味します。これが不浄な意識です。そして"私は享楽者である"。全物質界はあらゆる生命体が、"私がこの物質界の主であり創造者である"と考えて動きます。意識には2つの心的運動、2つの心的区分、があります。1つは"私は創造者である"、もう1つは"私は享楽者である"。至上主が実際には創造者であり、至上主が実際には享楽者です。生命体たちは、至上主の本質的部分であり、生命体は実際には創造者や享楽者ではなく、生命体は協力者です。機械と同じようなもので、機械の部品は協力するものです。協働する者。我々の体の構成を見てみてもよいでしょう。手があり脚があり眼があり、そういった器官全てが、働いている。がそれら体の部分は、享楽者ではない、胃が享楽者です。脚は場所から場所へ移動する。手は集める、食物を準備する。歯が噛んだり、体の全ての部分は、胃を満たすため働く。この体の組織にあっては胃が重要な器官だからです。全ては胃に与えられなければならない。([[vanisource:SB 4.31.14 |シュリーマド・バーガヴァタム4巻31章14節]]) 根に水をやると木が青々とするように。健康に‥、体の部分、手、脚、眼、耳、指、全てが健康でいられる。体の部分が胃に協力すれば。同様に、至上なる生物、主、主が享楽者です。主が享楽者であり主が創造者である。そして我々は、つまり、従属する生物たち、至上主のエネルギーの産物たち、我々は主に協力するためにある。この協力が助けになります。例えば、指が良い食物を取る。指が"なぜ胃にやらなければならない? 自分で食べよう"と思うならそれは誤りです。指は楽しむことはできない。指がその特定の食物の楽しみの成果を望むなら、指はそれを胃に入れなければなりません。 | |||
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Latest revision as of 14:46, 15 October 2017
660219-20 - Lecture BG Introduction - New York
そうして物質的に汚染されると、それは我々の条件付けられた段階と呼ばれます。条件付けられた段階。そして偽の自我、偽の意識‥偽の意識は"私はこの物質的自然の生成物の一つである"という印象に表れます。それは偽の自我と呼ばれます。物質的活動の全部、(シュリーマド・バーガヴァタム10巻84章13節) Yasyātma-buddhiḥ kuṇape tri-dhātuke 体の概念の思考に没頭する者 全バガヴァッド・ギーターは主により説明されました。なぜならアルジュナが体の概念の代理になったからです。生の体の概念から自由にならなければならない。それは超越主義者にとっての準備段階です。自由になりたい、解放されたい、と希む超越主義者にとって。まず第一に、自分はこの物質的体ではない、と学ばなければなりません。この意識、物質的意識‥この物質的意識から自由になると、それはmuktiと呼ばれます。Muktiすなわち解放、の意味は、物質的意識から自由になること。シュリーマド・バーガヴァタムにおいても解放の定義が述べられています (シュリーマド・バーガヴァタム2巻10章6節) Svarūpeṇa vyavasthitiḥ Muktiとは、この物質界の汚染された意識からの解放、清浄な意識に位置する、という意味である。そして全ての教え、バガヴァッド・ギーターの教授の全ては、その清浄な意識を目覚めさせることを目的とする。我々はバガヴァッド・ギーターの教授の最終段階で見ることになります。クリシュナはアルジュナに問う、今や君は浄化されし意識にあるや、と。浄化された意識にあるかどうかと。浄化された意識は主の指示に一致して活動するものです。それが浄化された意識です。それが浄化された意識の要点の全てです。意識はすでにそこにある、我々は(主の)本質的部分であるからですしかし我々は影響を受ける。物質的諸モードに影響されるという親和性があるのです。しかし主は至上なるものであり、決して影響されない。主は影響されることはない。これが相違点です。主、至上なるもの、‥至上主と‥ ではこの意識とは‥ この意識とは何か? この意識とは"私はxである"です。私とは何か? 汚染された意識においては、この"私は"は"私は見渡す全てのものの主人である"を意味します。これが不浄な意識です。そして"私は享楽者である"。全物質界はあらゆる生命体が、"私がこの物質界の主であり創造者である"と考えて動きます。意識には2つの心的運動、2つの心的区分、があります。1つは"私は創造者である"、もう1つは"私は享楽者である"。至上主が実際には創造者であり、至上主が実際には享楽者です。生命体たちは、至上主の本質的部分であり、生命体は実際には創造者や享楽者ではなく、生命体は協力者です。機械と同じようなもので、機械の部品は協力するものです。協働する者。我々の体の構成を見てみてもよいでしょう。手があり脚があり眼があり、そういった器官全てが、働いている。がそれら体の部分は、享楽者ではない、胃が享楽者です。脚は場所から場所へ移動する。手は集める、食物を準備する。歯が噛んだり、体の全ての部分は、胃を満たすため働く。この体の組織にあっては胃が重要な器官だからです。全ては胃に与えられなければならない。(シュリーマド・バーガヴァタム4巻31章14節) 根に水をやると木が青々とするように。健康に‥、体の部分、手、脚、眼、耳、指、全てが健康でいられる。体の部分が胃に協力すれば。同様に、至上なる生物、主、主が享楽者です。主が享楽者であり主が創造者である。そして我々は、つまり、従属する生物たち、至上主のエネルギーの産物たち、我々は主に協力するためにある。この協力が助けになります。例えば、指が良い食物を取る。指が"なぜ胃にやらなければならない? 自分で食べよう"と思うならそれは誤りです。指は楽しむことはできない。指がその特定の食物の楽しみの成果を望むなら、指はそれを胃に入れなければなりません。