JA/Prabhupada 1077 - 主は絶対であり、主の御名と主御自身は異ならない: Difference between revisions
Visnu Murti (talk | contribs) (Created page with "<!-- BEGIN CATEGORY LIST --> Category:1080 Japanese Pages with Videos Category:Prabhupada 1077 - in all Languages Category:JA-Quotes - 1966 Category:JA-Quotes -...") |
(Vanibot #0005 edit: add new navigation bars (prev/next)) |
||
Line 10: | Line 10: | ||
[[Category:Japanese Language]] | [[Category:Japanese Language]] | ||
<!-- END CATEGORY LIST --> | <!-- END CATEGORY LIST --> | ||
<!-- BEGIN NAVIGATION BAR -- DO NOT EDIT OR REMOVE --> | |||
{{1080 videos navigation - All Languages|Japanese|JA/Prabhupada 1076 - 死の時に我々はここに留まるか或いは精神界に移動する|1076|JA/Prabhupada 1078 - 意と知性の両方で24時間主を思うことに没頭する|1078}} | |||
<!-- END NAVIGATION BAR --> | |||
<!-- BEGIN ORIGINAL VANIQUOTES PAGE LINK--> | <!-- BEGIN ORIGINAL VANIQUOTES PAGE LINK--> | ||
<div class="center"> | <div class="center"> | ||
Line 22: | Line 25: | ||
<!-- BEGIN AUDIO LINK --> | <!-- BEGIN AUDIO LINK --> | ||
<mp3player> | <mp3player>https://s3.amazonaws.com/vanipedia/clip/660220BG-NEW_YORK_clip21.mp3</mp3player> | ||
<!-- END AUDIO LINK --> | <!-- END AUDIO LINK --> | ||
Line 30: | Line 33: | ||
<!-- BEGIN TRANSLATED TEXT --> | <!-- BEGIN TRANSLATED TEXT --> | ||
シュリーマド-バーガヴァタムはbhāṣyo 'yaṁ brahma- | シュリーマド-バーガヴァタムはbhāṣyo 'yaṁ brahma-sūtrāṇāmと呼ばれます。それはヴェーダンタ-スートラの自然な注釈です。それら全ての文献、我々が自らの思考を移動するならば tad-bhāva-bhāvitaḥ, sadā. Sadā tad-bhāva-bhāvitaḥ ([[vanisource:BG 8.6 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章6節]]) 常に従事する者は‥ 物質主義者が常に何か物質的な本を読むことに従事するように、新聞、雑誌、小説、文学、などに、そして科学的なもの、あるいは哲学や、思考の異なる次元のこれら全て。同様に我々が自らの、その読む能力をそれらヴェーダ文献へ移動するなら、提供された、ヴャーサデーヴァにより大変親切にも提供されたとおり。そうすれば全く可能になる、死の時に至上主を思い出すということが。主御自身が奨める唯一の方法がそれです。示唆ではない、それは事実です Nāsty atra saṁśayaḥ ([[vanisource:BG 8.5 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章5節]]) 疑いなく。それについて疑いはない Tasmāt、故に主は奨める tasmāt sarveṣu kāleṣu mām anusmara yudhya ca ([[vanisource:BG 8.7 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章7節]]) 主はアルジュナにアドバイスする mām anusmara yudhya caと。彼は言わない、"君はただ我を思い続けそして君の現在の職務を捨てよ"とは。言わない。それは奨められていない。主は非実際的なことは決して奨めません。この物質界で、この体を維持するために、人は働かなくてはならない。労働は社会秩序の4区分に分けられます ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ。社会の知識階級、彼らは違った方法で働く。 社会の統治階級、彼らもまた違った方法で働く。 商人階級、生産者階級、彼らもまた違った方法で働く。労働者階級、彼らもまた違った方法で働く。人間社会では、労働者として或いは商人として或いは政治家、統治者、或いは知識階級という最高の階級、文芸或いは科学研究、として、いずれか、誰でも皆何らかの労働に従事します。働かなければなりません、生きていくために。主はアドバイスします "君は君の職務を捨てる必要はない、 しかし君は同時に思い出せる Mām anusmara ([[vanisource:BG 8.7 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章7節]]) それが君を 死の時に君が我を思い出す助となろう 常に我を思い出す修練せずば 君の生存への苦闘と共に、でなければそれは可能ではないのだ" それは可能ではない。同じことが主チャイタンニャによってもアドバイスされています kīrtanīyaḥ sadā hariḥ ([[vanisource:CC Adi 17.31|チャイタンニャチャリタームリタ アディリラ17.31]]) Kīrtanīyaḥ sadā 人は常に主の御名を唱える修練をしなければならない。主の御名と主は違いません。主クリシュナからアルジュナへの指示があります mām anusmara([[vanisource:BG 8.7 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章7節]])と。"君はただ我を思い出せ"。そして主チャイタンニャの指示 "君は常にクリシュナの御名を唱えよ"。ここでクリシュナは言う "君はただ我を思い出せ" すなわち君はクリシュナを思い出せ。そして主チャイタンニャは言う "君は常にクリシュナの御名を唱えよ"。違いはありません。なぜならクリシュナとクリシュナの名は異ならないからです、絶対実在においてin the Absolute。絶対状態においては、ひとつのものと他のものとの間に違いはありません。それが絶対の状態です。主は絶対であるから、主の御名と主御自身は異ならない。ですから我々はそのように修練しなければなりません tasmāt sarveṣu kāleṣu ([[vanisource:BG 8.7 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章7節]]) 常に、24時間、我々は自らの生の諸活動をあてはめなくていかなくてはなりません、24時間思い出せるように。そんなことが可能でしょうか? はい、可能です。可能なのです。これに関してとても露な例がアーチャーリヤたちにより出されています。その例とは何でしょう? 一人の女性が他の男性に執着し、しかしその女性には夫がある、それでも他の男性に執着している。こういった類の執着は非常に強くなる parakīya-rasaといいます。男性でも女性でも。男性が妻以外の女性に執着する。女性が夫以外の男性に執着する。その執着は非常に強い。その執着は非常に強い。アーチャーリヤたちは悪いキャラクターとしてこの例を出します、他の女性の夫に執着する女性。彼女は常に考える、そして同時に、夫には家事に忙しいところを見せる。夫が彼女を疑わないように。彼女はいつも思い出している。夜、恋人と会う時間のことを。全ての家事をうまくこなしながらも。同様に人は至上の夫、シュリー・クリシュナを思い出さなくてはなりません。自らの物質的義務をうまくこなし、それをものともせず、常に。それは可能です。それには必要です。強い、強い愛情が。 | ||
<!-- END TRANSLATED TEXT --> | <!-- END TRANSLATED TEXT --> |
Latest revision as of 14:50, 15 October 2017
660219-20 - Lecture BG Introduction - New York
シュリーマド-バーガヴァタムはbhāṣyo 'yaṁ brahma-sūtrāṇāmと呼ばれます。それはヴェーダンタ-スートラの自然な注釈です。それら全ての文献、我々が自らの思考を移動するならば tad-bhāva-bhāvitaḥ, sadā. Sadā tad-bhāva-bhāvitaḥ (バガヴァッド・ギーター8章6節) 常に従事する者は‥ 物質主義者が常に何か物質的な本を読むことに従事するように、新聞、雑誌、小説、文学、などに、そして科学的なもの、あるいは哲学や、思考の異なる次元のこれら全て。同様に我々が自らの、その読む能力をそれらヴェーダ文献へ移動するなら、提供された、ヴャーサデーヴァにより大変親切にも提供されたとおり。そうすれば全く可能になる、死の時に至上主を思い出すということが。主御自身が奨める唯一の方法がそれです。示唆ではない、それは事実です Nāsty atra saṁśayaḥ (バガヴァッド・ギーター8章5節) 疑いなく。それについて疑いはない Tasmāt、故に主は奨める tasmāt sarveṣu kāleṣu mām anusmara yudhya ca (バガヴァッド・ギーター8章7節) 主はアルジュナにアドバイスする mām anusmara yudhya caと。彼は言わない、"君はただ我を思い続けそして君の現在の職務を捨てよ"とは。言わない。それは奨められていない。主は非実際的なことは決して奨めません。この物質界で、この体を維持するために、人は働かなくてはならない。労働は社会秩序の4区分に分けられます ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ。社会の知識階級、彼らは違った方法で働く。 社会の統治階級、彼らもまた違った方法で働く。 商人階級、生産者階級、彼らもまた違った方法で働く。労働者階級、彼らもまた違った方法で働く。人間社会では、労働者として或いは商人として或いは政治家、統治者、或いは知識階級という最高の階級、文芸或いは科学研究、として、いずれか、誰でも皆何らかの労働に従事します。働かなければなりません、生きていくために。主はアドバイスします "君は君の職務を捨てる必要はない、 しかし君は同時に思い出せる Mām anusmara (バガヴァッド・ギーター8章7節) それが君を 死の時に君が我を思い出す助となろう 常に我を思い出す修練せずば 君の生存への苦闘と共に、でなければそれは可能ではないのだ" それは可能ではない。同じことが主チャイタンニャによってもアドバイスされています kīrtanīyaḥ sadā hariḥ (チャイタンニャチャリタームリタ アディリラ17.31) Kīrtanīyaḥ sadā 人は常に主の御名を唱える修練をしなければならない。主の御名と主は違いません。主クリシュナからアルジュナへの指示があります mām anusmara(バガヴァッド・ギーター8章7節)と。"君はただ我を思い出せ"。そして主チャイタンニャの指示 "君は常にクリシュナの御名を唱えよ"。ここでクリシュナは言う "君はただ我を思い出せ" すなわち君はクリシュナを思い出せ。そして主チャイタンニャは言う "君は常にクリシュナの御名を唱えよ"。違いはありません。なぜならクリシュナとクリシュナの名は異ならないからです、絶対実在においてin the Absolute。絶対状態においては、ひとつのものと他のものとの間に違いはありません。それが絶対の状態です。主は絶対であるから、主の御名と主御自身は異ならない。ですから我々はそのように修練しなければなりません tasmāt sarveṣu kāleṣu (バガヴァッド・ギーター8章7節) 常に、24時間、我々は自らの生の諸活動をあてはめなくていかなくてはなりません、24時間思い出せるように。そんなことが可能でしょうか? はい、可能です。可能なのです。これに関してとても露な例がアーチャーリヤたちにより出されています。その例とは何でしょう? 一人の女性が他の男性に執着し、しかしその女性には夫がある、それでも他の男性に執着している。こういった類の執着は非常に強くなる parakīya-rasaといいます。男性でも女性でも。男性が妻以外の女性に執着する。女性が夫以外の男性に執着する。その執着は非常に強い。その執着は非常に強い。アーチャーリヤたちは悪いキャラクターとしてこの例を出します、他の女性の夫に執着する女性。彼女は常に考える、そして同時に、夫には家事に忙しいところを見せる。夫が彼女を疑わないように。彼女はいつも思い出している。夜、恋人と会う時間のことを。全ての家事をうまくこなしながらも。同様に人は至上の夫、シュリー・クリシュナを思い出さなくてはなりません。自らの物質的義務をうまくこなし、それをものともせず、常に。それは可能です。それには必要です。強い、強い愛情が。