JA/Prabhupada 1074 - 我々がこの物質界で経験する全ての苦しみ - それは全てこの体の為である: Difference between revisions
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バガヴァッド・ギーターの別の箇所でもまたこういわれています (バガヴァッド・ギーター8章21節) (バガヴァッド・ギーター8章21節) | バガヴァッド・ギーターの別の箇所でもまたこういわれています ([[vanisource:BG 8.21 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章21節]]) ([[vanisource:BG 8.21 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章21節]]) Avyaktaは「出現していない」の意味です。物質界の部分ですら我々の前には出現していません。我々の感覚はあまりにも不完全であり、この物質宇宙に何個の星があるか、何個の惑星があるか、も見ることができません。もちろん、ヴェーダ諸文献を通して我々は全ての惑星の情報を得る。信じようと信じまいと、我々に関連する重要な惑星全て、それらはヴェーダ文献に記述されております。特にシュリーマド・バーガヴァタム中に。しかし精神界、それはこの物質的天空を超えるものです、 paras tasmāt tu bhāvo 'nyo ([[vanisource:BG 8.20 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章20節]]) が、そのavyakta、その出現していない精神的天空、がparamāṁ gatim、それが、人が欲するべきもの、人はその至上の王国へ至ることを切望するべきです。そしてひとたびその至上の王国へ到達すれば、yaṁ prāpya、その至上の王国に到達する或いは成就すれば na nivartante、この物質界へ戻る必要はない。そして主の永遠の住処であるその場所、そこから我々は戻る必要はない、それが我々の、それが我々の‥であるべき (中断) 一つの問いが生じてくるでしょう。主の至上の住処へ到達する方法とは何か、と。それもバガヴァッド・ギーターに記述されています、8章5、6、7、8節に。至上主、至上主の住処、に到達するプロセスも、そこに示されています ([[vanisource:BG 8.5 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章5節]]) ([[vanisource:BG 8.5 (1972)|バガヴァッド・ギーター8章5節]]) Anta-kāle、生の終わりに、死の時に Anta-kāle ca mām eva クリシュナを思う者、smaran、もし彼が思い出せるなら。死なんとする人物、死の時に、もしクリシュナの姿を思い出すなら。そのように思い出している間に、現在の体を去るなら、そうすれば確実に精神的王国へ到達する、mad-bhāvam Bhāvamは「精神的自然」の意味です Yaḥ prayāti sa mad-bhāvaṁ yāti Mad-bhāvamはちょうど、「自然」すなわち「至上存在の超越的自然」。先に述べましたように、至上主はsac-cid-ānanda-vigraha (ブラフマ-サンヒター5.1) 主はその形態・姿を有する、しかしその形態は永遠である、sat。知識に満ちている、cit。至福に満ちている、ānanda。我々の現在の体を比べてみましょう。この体はsac-cid-ānandaであるか。違う。この体はasat。satであるかわりにasatです。Antavanta ime dehā ([[vanisource:BG 2.18 (1972)|バガヴァッド・ギーター2章18節]]) バガヴァッド・ギーターは言う、この体はantavat、滅びる。そして‥Sac-cid-ānanda。satになるかわりに、それはasat、正反対です。そしてcit、知識に満ちる、になるかわりに、それは無知に満ちている。我々は精神的王国についての知識なく、この物質界についての完璧な知識も持たない。たくさんのものを我々は知らない。故にこの体は無知です。知識に満ちる、になるかわり、それは無知。体は滅ぶ、無知に満ち、そしてnirānanda。至福に満ちる、になるかわり、それは苦しみに満ちている。我々がこの物質界で経験する苦しみの全て、それは全てこの体の為です。 | ||
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Latest revision as of 14:49, 15 October 2017
660219-20 - Lecture BG Introduction - New York
バガヴァッド・ギーターの別の箇所でもまたこういわれています (バガヴァッド・ギーター8章21節) (バガヴァッド・ギーター8章21節) Avyaktaは「出現していない」の意味です。物質界の部分ですら我々の前には出現していません。我々の感覚はあまりにも不完全であり、この物質宇宙に何個の星があるか、何個の惑星があるか、も見ることができません。もちろん、ヴェーダ諸文献を通して我々は全ての惑星の情報を得る。信じようと信じまいと、我々に関連する重要な惑星全て、それらはヴェーダ文献に記述されております。特にシュリーマド・バーガヴァタム中に。しかし精神界、それはこの物質的天空を超えるものです、 paras tasmāt tu bhāvo 'nyo (バガヴァッド・ギーター8章20節) が、そのavyakta、その出現していない精神的天空、がparamāṁ gatim、それが、人が欲するべきもの、人はその至上の王国へ至ることを切望するべきです。そしてひとたびその至上の王国へ到達すれば、yaṁ prāpya、その至上の王国に到達する或いは成就すれば na nivartante、この物質界へ戻る必要はない。そして主の永遠の住処であるその場所、そこから我々は戻る必要はない、それが我々の、それが我々の‥であるべき (中断) 一つの問いが生じてくるでしょう。主の至上の住処へ到達する方法とは何か、と。それもバガヴァッド・ギーターに記述されています、8章5、6、7、8節に。至上主、至上主の住処、に到達するプロセスも、そこに示されています (バガヴァッド・ギーター8章5節) (バガヴァッド・ギーター8章5節) Anta-kāle、生の終わりに、死の時に Anta-kāle ca mām eva クリシュナを思う者、smaran、もし彼が思い出せるなら。死なんとする人物、死の時に、もしクリシュナの姿を思い出すなら。そのように思い出している間に、現在の体を去るなら、そうすれば確実に精神的王国へ到達する、mad-bhāvam Bhāvamは「精神的自然」の意味です Yaḥ prayāti sa mad-bhāvaṁ yāti Mad-bhāvamはちょうど、「自然」すなわち「至上存在の超越的自然」。先に述べましたように、至上主はsac-cid-ānanda-vigraha (ブラフマ-サンヒター5.1) 主はその形態・姿を有する、しかしその形態は永遠である、sat。知識に満ちている、cit。至福に満ちている、ānanda。我々の現在の体を比べてみましょう。この体はsac-cid-ānandaであるか。違う。この体はasat。satであるかわりにasatです。Antavanta ime dehā (バガヴァッド・ギーター2章18節) バガヴァッド・ギーターは言う、この体はantavat、滅びる。そして‥Sac-cid-ānanda。satになるかわりに、それはasat、正反対です。そしてcit、知識に満ちる、になるかわりに、それは無知に満ちている。我々は精神的王国についての知識なく、この物質界についての完璧な知識も持たない。たくさんのものを我々は知らない。故にこの体は無知です。知識に満ちる、になるかわり、それは無知。体は滅ぶ、無知に満ち、そしてnirānanda。至福に満ちる、になるかわり、それは苦しみに満ちている。我々がこの物質界で経験する苦しみの全て、それは全てこの体の為です。